原子力誤解の解体新書(1)- 誤解とは何か -

2015年12月24日(木)

1.はじめに

 20113月の東京電力福島第一原発事故は、日本人に大変な衝撃を与え、大きな悲しみを生みました。原子力関係者は、今でも、何をすべきで、何をしなかったのか、自問と自省を続けています。そして東日本大震災のすべての被災者の方々、また福島事故の被災者の皆さまに、心からの御見舞いの念を抱き続けています。今でも多くの避難者が帰還できずに不本意な生活を余儀なくされています。どうして早期解決ができないのか、どこに原因があるのか、ずっと追及しています。

福島原発事故を契機に、国民の多くは原子力に不信感と同時に疑問を抱き、原発は存在しないほうが良いと思う人が増えました。それなら即刻原発ゼロにすればよいのですが、日本の将来を考えればそうはいかない国家的な事情(例えばエネルギー安全保障問題)がすぐに思い浮かんできます。大学生向けに原子力理解活動を長年実践してきたSNW(Senior Net-work )によると、この約80%の大学生がこの国にとって原発は必要だと考えているそうです。一方、朝日など大新聞の世論調査は固定電話方式に基づくため、対象が年配の人に偏りがちで(若者は固定電話を使わない)、原子力反対が60%強となるそうです。若者は自分の未来に関心を示し、年配の方は目先のことに強い関心がいくからだそうです。こういった状況下では、明快な結論は得られず、国論は二分している状態です。

政府は、昨年4月に、2030年の時点で原子力は約22%維持するというエネルギー基本計画を閣議決定しました。原子力なくしてこの国は立ち行かぬという見通しが背景にあります。原子力問題は実に複雑で簡単には解決できない難しい問題です。今後もこの議論は経済的破綻が生じるまで続くと思いますが、破綻が来ては元も子もありません。

福島事故では、放射線による死者は一人もいません。また放射線による健康障害も生じていません。これは事実ですが、これを口にするとマ001スコミや反原発派から凄まじい批判を浴びてしまうでしょう。実際に、事実を口にした政治家や技術者がマスコミの峻烈な批判にあって涙の謝罪会見を余儀なくされたこともありました。この状況はある種の魔女狩りです。マスコミは言論の自由を言いながら、実態は言論統制を自ら実行しているのに等しいものがあります。多くのマスコミが事故の危険性を過剰に煽っていることは少なくとも明白です。この問題は国民一人ひとりの問題です。福島事故を契機に、マスコミの影響を受けずに原子力問題を考えてみてはどうでしょうか。そうすることが今一番重要な時期に来ています。

このような問題意識を持つと、原子力を考える手がかりは一体何かということになります。それは、私達は原子力について正しい知識を持ち、正しく理解しているのだろうか、という自問からスタートするのも一つの方法だと思います。具体的に、原子力にはどういう誤解が蔓延しており、それがどのくらいに顔を利かせているのか、というところから考え始めてみては如何でしょうか。

 このコラムでは数回に亘り、原子力誤解について有志が検討した結果を紹介させて頂きます。意見はあくまでも有志のもので、場合によっては正しくない、考え過ぎ、といったものもあるかもしれません。そこで、パイオニア精神を強調して“解体新書”という題目を採用することにしました。これを読まれた方がこれを契機に自ら考えて頂くきっかけになればと思います。新聞の言っていることは間違いではありませんが、常識に照らし合わせてみると、正しくない記事や報道が山ほどあります。それを見破ることができた時は望外の喜びを感じられるかもしれません。ぜひそこに向かって挑戦してみては如何でしょうか。

2.原子力誤解とは何か

最初に、なぜ原子力をめぐる誤解が重要なのかを、考えてみたいと思います。原子力に関する誤解は、友人の考えを誤解していたというのとは違います。このような日常の誤解は説明すれば比較的簡単に解けるもので、国の運命とは何の関係もありません。しかし、原子力誤解は放っておくと、国が原子力を放棄する事態に発展しかねません。また、それを意図して報道している新聞もあります。

003日本は世界一の原子力技術を持っています。そのため、日本は世界から尊敬され、畏れられています。それは国民が誇りにして良い高度な技術です。しかし原子力誤解の広まりにより、日本が原子力を止めた場合、今この瞬間は良いとして、孫子は必ず私たちの決定を恨みます。どうしてあんな馬鹿なことをしてくれたのかと言って。原子力誤解はそれほど重大な問題なのです。前書きが長くなりましたが、本論に入りましょう。

 そもそも、誤解を持たない人間はいません。その誤解は人の思考の中に存在しています。人は世間に生きていて、誤解も世間に浮遊しています。人は何らかのきっかけで浮遊している誤解群に捕まったり、何らかのきっかけでそれを捨てたりしています。

誤解に関する私たちの素朴なイメージは「真実とは異なった理解」というものでしょう。しかし真実とは何か、正しい理解とは何かを議論しないで誤解を定義するというのは理屈に合いません。そこで、誤解について考えてみれば、誤解とは、人が思っているほど単純ではないことに気がつきます。単に「間違いだからといって捨て去る」には惜しい誤解もあり、それを解きほぐそうとすると、実は奥が深く、広がりを持つことに気付かされることもあります。例えば、原子力は疲弊した地方、過疎化の流れが止まらない地方、を救える可能性がある、という発想は、今は誤解に近い奇想天外のアイデアかもしれません。しかし、人々の原子力に対する理解が深まれば、このアイデアはひょうたんから駒になるかもしれません。つまり今は誤解と言われるものの中にも、捨てがたいものが潜んでいるのです。

誤解とは物事の新しい側面を学ぶことができる〝何か〟と捉えてみてはどうでしょうか。

002また、別の例を考えてみましょう。原発の事故が起これば、悲惨な状況が生まれ、多くに人々が苦しみます。これは誰も否定できない事実です。一方地球温暖化が進むと海水温度が上昇し、台風や竜巻やハリケーンなどが限りなく凶暴化していきます。この程度ならまだ救いがあります。しかし、1221日のNHKのニュースで、地球は温暖化時代に突入し、来年は関東地区でも45度になると報じていました。やがて、中国では大干ばつが起き、食料が不足し数億人が飢えで苦しむ事態も想定されます。貧困に苦しむ大量のシリア難民がヨーロッパを目指している今の状況が日本でも現実のものになってしまうかもしれません。そのような状況にならないためにも、今から考え、危機管理対策を行う必要があるのではないでしょうか。ヨーロッパでは難民問題が深刻になっていますが、この原因は地球温暖化問題と直接関係はありませんが、温暖化問題がもっと顕在化したら、更に深刻な問題に発展していくかもしれません。地域に限られないグローバルな問題が人類の前に現れ始めています。こうした問題を評価するとき、その規模、深刻さ、解決可能であるか、を考える必要があります

これらの地球規模の問題に比べれば、福島事故は国家の運命を決めるほど重大ではないという学者もいます。米国の著名な環境学者であるダイアモンド氏は「地球は温暖化問題で滅びることはあっても、原発事故で滅びることはない」と断言しています。私達もこれに同意します。何故なら、温暖化の規模と原発事故の規模を考えれば、当然のことです。原発事故は時間が経てば、放射能は減衰し、環境は復活します。しかしいったん上昇した地球の温度は下げることは容易ではありません。原発反対のマスコミは原発事故で人類は滅びると言って止みませんが、それは大きな誤解です。一部マスコミは人々に誤解を上手に与えようとし続けています。その最大の罪深い行いは風評被害をもたらす報道です。従って、原発事故で日本は、世界は、人類は滅びるかもしれないという見方は大きな誤り、誤解なのです。しかし、この誤解から学べることもあります。それは、マスコミの言うことを全面的に信用しないこと、被害の及ぶ範囲がまるで違うことに注意すること、回復が可能かどうか、についてです。言い方を変えると、柔軟な見方を遮る“絶対”から、冷静な見方を可能にする“相対”へ向かうことが一番大事なことだと思います。

友人と喧嘩して、友人が憎くてたまらないという気持ちになったことは誰でも経験しているでしょう。その時の心の状態は憎しみでいっぱいで他のことが考えられなくなっています。これが“絶対”です。しかし時間が経って後になってみると大抵後悔します。他の要因を考えることができるようになるからです。この状態を“相対”と言います。誤解も絶対的になると、頑固になります。なかなか。相対的になることができません。相対的になる工夫が必要になってきます。これを「情緒から常識へ」ということにします。

3.誤解と世界観

004 では、誤解を通して学べる「新しい側面」とは何でしょうか。それは世界観といってもよいのではないでしょうか。「誤解が切り開く新しい世界観」です。視点を変えて誤解を眺めてみる。そうすると異なった側面に気がつきます。このとき世界観が広がったことになります。

私たちが町の中で見ることのできるものといえば目の前の建物や人々だけです。しかし山に登り町を見下ろすと建物全体の位置と配置、複雑に交差する道路全体などが一望に見渡せます。したがって誤解に関連する事項を一つ一つ解決して行って頂上に到達すると、誤解に関連する世界が一望に見え、世界観が広がる思いがするのではないでしょうか。登山電車に乗ると、高く登れば登るほど、眺望が広がることに例えられるでしょう。

 明治時代の偉大な思想家であった福沢諭吉は著書「文明論之概略」の冒頭で「文明論とは、人の精神発達の議論なり。その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり」と定義しました。ここで文明論を誤解論に、精神発達を精神の偏(へだたり)りに、置き換えれば「誤解論とは、人の精神の偏りを議論するもので、その趣意は、一人の精神の偏りを論ずることではなく、天下衆人の精神の偏りを一体に集めて、その一体の偏りを論ずるものなり」となります。この表現は本稿で扱う論点を的確に表しております。一人の人の誤解はさほど重要ではありません。社会を動かす人々に広がった天下衆人の誤解となった時が問題なのです。今後、そのような視点から誤解を考えたいと思います。

4.誤解には存在する理由がある

すべての人がすべての事柄について正しい理解をしている状態はありえるでしょうか。そんなものはあり得ません。もし、誤解がなければ、小学校から大学まで誰もが百点を取る世界、誰もが同じことをいう世界です。要するに、人から個性がなくなってしまい社会が機能しなくなります。

誤解は常に存在し、存在する深い理由があるように思えます。闇があるから光は一層映えます。庭の植木に光が照り、植木が映像として映え、影がそれをいっそう浮きたたせます。また真実は嘘があるから光ります。二項対立とよく言いますが、光と影、真実と嘘、正解と誤解、などは二項対立で、物事の理解を深めてくれる役割を果たします。

 したがって理解は誤解によっていっそう鮮明になります。これを敷衍すれば「誤解は世界観を広げる」ことにつながるといえます。逆転の発想をすれば「世界観を広げるため〝誤解〟を活用する」ということです。誤解は正解だけでは決して見られない世界を見せてくれるのです。

 この視点に立つと、誤解を完全に、また一度に解くことは、かなり難しいように思えます。誤解を乗り越えるためには、問題を一つ一つ解決し、多くの物事を正しく理解できるレベルまで継続的に努力していくことが大事です。これは、「解けない問題は解ける問題に分けて解き、それらを統合して難問の近似解にする」という方法論に近くなります。この問題は重要なので後述します。

 この誤解を解きほぐすという行為は、実は原子炉施設の安全の維持に不可欠な保全業務に似ています。保全業務は原発の安全を維持するため、また故障率を最小化するため日々に実施します。PDCAP=計画を立て、Do=実行し、Check=評価し、Action=それらを基に次の保全業務を改善する、こと)という改善行為を無限に続けていきます。原子力の安全では終局的には〝絶対安全〟を目指します。しかし、いきなり絶対安全の状況を作り出すことはできませんが、こうすることで終局の目標である〝絶対安全〟に近づいていこうとするのです。実現できないが、目標として掲げ、常に安全性を高めていく、これ以外に安全性を高めていく方法はないと思うべきです。

 少し抽象的になり過ぎましたが、誤解も同様で、PDCAを回しながら誤解を克服する行為は、終局の目標というべき〝絶対理解〟に近づこうとする行為にほかなりません。これは人が知的に向上する最良の、そして唯一の方法かもしれません。

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